東京通信簿

愛なき時代をどうやって生き延びたらいいんだろうね

人間として、社会に生きるということ。

 

能力の多寡と社会での成功の相関性はそう高くない。
成功と相関性の高いものは、取り返しのつかない失敗の少なさと”世間”とうまく渡り歩くこと。
 
取り返しのつかない失敗の少なさとは、
短期的に言えば、深い洞察、張り巡らせた注意力と機動的な意思決定によるもの。
忙しい日々の中でいかに能動的に余裕を作り出せるか。
長期的に言えば、失敗との向き合い方とつながりへの感謝、つまり愛。
自分の不甲斐なさと真正面から向き合い、過信も慢心もせず、ただ粛々と。そして、世の中をサバイブするには、一人で出来ることはいかに小さいかを体感し、力を貸してくれる人に感謝をする。無償の愛を誰かに届けられてますか。
小さな失敗から、角度の高い具体的な反省と対策をすることも加えて相当重要。小さい失敗をすること、認識して反省すること。
 
”世間”とうまく渡り歩くとは、
どんな人に対しても想像力を働かせ、どこかに「惚れ込めること」。(以下記事から引用)
 

 
これは、取り返しのつかない失敗の少なさとも、力を貸してくれる人たちとのネットワークを作り、維持する、つまり、信頼関係の維持構築という点で、相互連関的である。
 
日々、努力して”成長”している自分は、優秀で偉く、そうじゃない人は怠惰で、人間として劣ると脳内のどこかで思い込んでいないか。その環境を、その視座を誰から与えてもらったのか。経済的な尺度の奴隷になってないか。大切な人を思う気持ち、そのための行動、つまり、愛を感じられない傲慢で軽薄な人間になってないか。
 
想像力と現実、論理と愛の間。虚実皮膜の間に今日も生きる。
無事に今日を終えられて良かった。思い上がらず、目の前にある幸せを能動的に維持したい。自分の人生だけど、自分自身のためだけではなく、自分自身だけのものではない。

投資か勝負か。

今日という日は、未来の投資のためにあるのか。それとも、これまでやってきたことを存分に発揮するためにあるのか。

 

為末さんが、以前スポーツを題材に同じようなことを書いていた。

tamesue.jp

パフォーマンスは常にトレーニングの要素を含み、トレーニングはいつもパフォーマンスを想定する。スポーツにおいてはまだわかりやすいが、社会ではこれらが相当にわかりにくい。パフォーマンスだけでトレーニングは十分だという人もいるし、日常のトレーニングの積み重ねこそ偉業を支えるという人もいる。明日の会議はパフォーマンスなのかトレーニングなのかよくわからない。 

 

スポーツでさえ、トレーニングとパフォーマンスのバランスは難しい。

 学生時代に部活動でやっていたバスケットを思い出す。高身長で体の線が細かった私は、全体の練習とは別に相当ウエイトトレーニングをやりこんでいた。

長期的に考えれば、日々ウエイトトレーニングをして、体を鍛え、サイズを大きくすることはパフォーマンスの上昇につながる可能性が高い。活躍出来るステージをあげるためには非常に有効な手段だと考えられる。

一方で、日々のウエイトトレーニングによって、他のメンバーより疲労が蓄積し、プレーに精彩を欠いたり、体重の増加によって、体のバランスを一時的に崩し、シュート感覚を狂わせてシュートが入らなくなるといったように、パフォーマンスを落とせば、そもそもパフォーマンスを発揮すべき試合にすら出られなくなる危険性もある。

このバランスを上手く保ち、継続的に選手として成長していくのは至難の技だった。

 

為末さんが文中で言及しているが、日々の生活ではこの問題はもっと複雑だ。

そもそもどこがパフォーマンスを発揮するべきところなのか、パフォーマンスとは何を指すのか。世の中で共通となる定義がほとんどない。

 

いつもやるべきことに追われて、疲れ切っている友人がいる。彼は、経験値を増やすために自分をいつも限界まで追い込むというトレーニングを日々しているのだろうか。経験値を増やすトレーニングが目的であったとしても、高いパフォーマンスでそれぞれに対処をした方がいいのかもしれない。どちらに重きを置いているかをそもそも考えているのだろうか。

 

両者の関係性は複雑だ。パフォーマンスだと思って取り組んだことも、振り返ってみれば経験として自分に蓄積され、成長につながる。トレーニングをするにも、一個一個に高いパフォーマンスを発揮しなければ、効果は薄い。

例えば、大きなプレゼンをすることは、パフォーマンスであることが多いだろうが、そのプレゼンの準備の過程やプレゼン後のフィードバックがその後の自分のパフォーマンス改善に活かされるのであれば、それはトレーニングとしての一面も帯びている。

 

自分にとってのパフォーマンスとは何か。

これをしっかりと意識して、言語化することが何より大切なのではないかと思う。どこで、どのような役割を果たすことが、いいパフォーマンスと自分は考えているのか。

例えば、日本代表として得点力の中核を担うのか地域のクラブチームでゲームメイカーになるのかによって、現時点の自分が日々を過ごす上でのトレーニングとパフォーマンスは違ってくるはずだ。

 

時間軸で、いつパフォーマンスを最大にもってくるか。

これも大きな問題になってくるはずだ。

ビジネスの話でよくある、余剰現金で自社株買いを行い、ROEを改善して短期的利益の改善を望む株主と長期的に安定したキャッシュポイントを生み出すために、一時的に利益を減少させてでも投資に余剰資金をあてようとする経営層が揉めるのも、現時点がパフォーマンスなのかトレーニングなのかの認識のズレが一つの大きな要因ではないか。

友人のプロ選手は、オンシーズン中でも週に1、2回はウエイトトレーニングやハードに自分を追い込む日を作っていると言っていた。現状の自力でパフォーマンスを最大化することに努めているだけでは、プロの世界で長く活躍できるレベルまで到達出来ないと痛感しているからだと言っていた。

 

パフォーマンスとは何かを定義して、長期的なパフォーマンスの最大化を目指すためにトレーニングを日々に取り入れ、手段の自己目的化をなるべく防ごうとしても、やはり両者は複雑に交わっており、綺麗に切り分けて考えることが難しい。鶏と卵の問題のようにどちらが先かも明確でない。

 

最近心がけていて効果を上げていると思うのは、高いパフォーマンスで物事に対処しようと先に考えて、行動設計をすることだ。そして、1日の終わりに、様々な角度から取り組みを評価して、トレーニングとしての意味合いを持つものを書き出す。思わぬ発見がそこにあったりもして楽しい。